沖縄戦跡と戦後沖縄を巡る旅人

あの凄惨極まりない沖縄戦を遡り、時には戦跡を探訪するブログ

竜宮通り社交街

牧志交番の横

竜宮通り社交街

有名な山羊料理の店「さかえ」

空き店舗とか

店構え変わったりとか

昼間は人がいなかったりとか

全然いなかったりとか

こういう店が多くて

こんな店も多い

映画のポスターいっぱい

ミゼット発見

一番奥にある

そして、今はないもの

ない

ない

これ、有名で、竜宮のランドマークだったんだよね

 

 

 

ハーフムーンヒル

真嘉比小学校の裏

真嘉比南公園

かつて沖縄戦時、アメリカ軍からはハーフムーンヒルと呼ばれ、シュガーローフと共に日本軍にとっては那覇侵攻に対する最終防衛ラインとして大激戦が行われた。

奪われた→奪還した→また奪われた→奪還した、を繰り返したシュガーローフとは異なり日本軍完全撤退まで一度もアメリカ軍の手に落ちたことはなかった。

大道森(だいどうむい)と呼ばれていた

 

戦後この地はアメリカ軍に接収されてあたが、お墓や畑が多い場所で、全くの手つかずの草ボーボーだったらしい

日本に返還後、本格的遺骨の発掘調査が行われたが、とにかく出るわ出るわ、日本軍やアメリカ軍の兵士と思われる人骨やら、銃剣、薬莢、兵装品の数々が。

公園内にはこのモニュメントがあります。

ちなみに上部の横に長いコンクリートは銃撃を受けた跡が残ったコンクリート造りの建物の一部分です。

2010年くらいまでは、度々遺骨の発掘調査が行われ、地元の真嘉比小学校の児童たちが社会科の歴史学習の一環として行うこともありました。

しかし、「もう、きりがない」などの理由でまだまだ一帯に眠る無数の遺骨は、再開発の名のもとアスファルトの下に埋められてしまいました。

 

バックナー中将慰霊碑

サイモン・B•バックナージュニア中将

アメリカ軍第10軍司令官

昭和20年6月18日、バックナー将軍は糸満市真栄里の前線施設中に日本軍の砲撃に遭い戦死しました。

この地は戦後霊域(セイクリッドエリア)となり、立ち入りは一切厳禁になりましたが、

何故かバックナー将軍の戦死した翌日に戦死したイースリー准将の慰霊碑のほうが豪華に見える

実はバックナー将軍の慰霊碑は右奥にあるのですが、

実は74年にバックナー将軍の慰霊碑はアメリカ軍のキャンプフォスターに移設されてしまいました

「しかし、何にもないのもなんかアレだよなぁ」という地元住民の有志の方々が、新たにこの慰霊碑を建立しました。

はい、全くおっしゃる通りです。


チョコレートドロップヒル

 

現在の首里大名町。昔の首里西原村

かつて沖縄戦アメリカ軍は、攻撃目標がわかりやすいようにこの一帯をチョコレートドロップヒルと勝手に呼んでいました。日本軍の呼称は西部130高地。

大名高地は今の末吉公園のあたり。

 

焼け野原

今のゆいレール石嶺駅のあたりも大激戦地だったそうですが

「ビッグディックエナジー」(苦笑)

 

戦時中、首里石嶺町一帯はアメリカ軍からはディックヒルと呼ばれていたらしい。

石嶺の皆さん、これだけは怒っていいと思います。

 

 

 

白梅学徒隊

白梅学徒隊という名前は戦後につけられた名前だそうです。

沖縄第二高女、第二高等師範の最上級生で編成された学徒隊(従軍看護師)

 

那覇市の、現在の松山公園に学校がありました。これは学校関係者の慰霊碑ですね

ひめゆりに比べるとなかなか取り上げられることは少ないですね

糸満市真栄里の白梅之塔の前。とりあえず公衆トイレと駐車場あり

白梅之塔

解散命令後、突如戦場(しかも大激戦地)に放り出された彼女たちは、この地で多数の犠牲者を出したという

軍隊と共に国吉台方面に移動した面々はもっと悲惨だったらしい。

結局46名中22名の学徒が犠牲になるという悲惨さでした。

 

崇元寺石門跡

・・・を渡り、

わずかに残る石門跡

崇元寺付近は、戦前は泊高橋と首里を結ぶ交通の要所でした

立派に見えますが、

不法投棄の場所

こっちは大丈夫

バス停

境内にある大きなガジュマルの木

焼け野原からの復興を見続けてきました